カーニバル米原の人生

――1861年11月11日に黄泉の国で誕生。出生時は16gと、黄泉の国の基準では比較的大柄な赤ん坊だったという。 なお大事忍男神の弟というエピソードは今でも有名であり、彼自身も思春期になるまではそのことを自慢げに語っていた。 その後「勉強がしっかりでき、すくすく育つことのできる現世がよい」と両親が考え日本に移住する。 お腹の中にいた時から浄瑠璃の音色を聴き続けていたためか、日本への移住に彼はかなりの期待感があったという。 長年の日本の生活の中で彼は「日本における神の存在とその存在意義」という議題に対して深く関心を持ち、後に彼が“八百万の神”まで上り詰めるきっかけともなった。 なお、彼は非常に多趣味でありその多趣味さが功を奏し、戦争でも大活躍。 今では歴史の教科書にも記されている第二次世界大戦での彼の功績は語りつくせないほどあると言われている。 戦争を機に彼の日本への愛国心はより一層増し、神になった今でも正月になるとお参りに日本に訪れるという。 そして61歳になるまでしばらく豆腐屋を経営し日本人として育ってきたが、多趣味な彼が手を出したミュージシャンという夢をかなえるため“日本人の顔だと世界レベルで活躍できないんじゃないか”と懸念を抱きイギリス人に転生する。 その後の彼のこだわりは凄く、イギリス人らしさを出すためにイギリスに移住。しかし後にわかったことだが、“彼が長年住んでいたイギリスが実はアメリカだった”というエピソードは彼を語るうえで欠かせない笑い話の一つとなっている。 その後、ミュージシャンとしての品格を養うため彼は大統領に就任。 だが前述のとおりなので、必然的にイギリスではなくアメリカの大統領となった。 その後なんやかんやあり八百万の神となり、現在は巷で話題のミュージシャンとして世間をひそかに騒がせている。

簡易版

カーニバル米原(かーにばるこねはら,CarnivelKonehara 1861年11月11日、B型)は八百万の神として広く知られており、 彼に必要なのはカツラだけ、と言われるほぼ完璧な人物。192ヶ国との交流を持っている。また、 豆腐屋の生まれでありながら、マサチューセッツ工科大学を卒業した後、日本の発展に大きく貢献した神である。

<日本>
29歳の時、当時イギリスの生活に慣れていた米原は和式便所に芸術を感じた。 そして、和式便所の本場の感覚を養うため、彼は日本へと旅立つ。 滞在中、足を滑らせ和式便所に頭がめり込んでしまう。 ※この出来事はカーニバル法典にも記さている。 なお、日本の俳人、正岡子規とは「シキ」「ヨネ」と呼び合う間柄であった。 また、あまり知られていないが豆腐の角にぶつけて死ぬは彼が語源である。

<海外>
彼は、ロープ無し逆バンジーを(5年生の時に)最初にインドに持ち込み、広めた事でも知られている。 また、各国からは、米原ブリッジと呼ばれる。